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2010年11月22日 (月)

たる源(樽・桶): 東山・縄手道三条下ル新五軒町

 五木寛之氏の随想のなかに《たる源》が出てくる。五木氏とその友人が、金沢の有名旅館に宿泊した。風呂から上がってきた友人が、感に堪えない面持ちで「風呂は檜がいいねえ。ホテルの洋式バスタブとは雲泥の違いだ。それに、この宿は、京の《たる源》から取り寄せた風呂桶を使っている。一流旅館の客への心くばりの良さに感心した」と言った。旅を終えた五木氏は、彼の言葉を思い出し、《たる源》に注文したのだが、届いたのは二年あまりもしてからだった。ま、そんな内容の随筆だった。
 わたしは、その友人の気持ちがよく分かる。温泉旅館の大浴場につかっていて、湯気の向こうで風呂桶を置く「コーン、コーン」という音が、天井から降ってくるのを聞くと、しみじみ旅の宿の佳さを感じる。妙なもので、これがプラスティックの桶だとこうはいかない。「ベチャッ」というように聞こえる。
 その《たる源》に行ってきた。風呂桶を買いに行ったのではない。だいいち、うちの風呂ではいくら名人の桶でもあの心地よい「コーン、コーン」は聞けない。あの音は広い浴室と高い天井、石を敷いた洗い場が必須条件である。残念ながら、新建材の自宅ではいくら名人の樽でも「ベチャ」のくちである。

Photo

 《たる源》は京阪・三条駅のすぐ近くである。
 五木氏の文章から、主は頑固一徹の職人肌と想像していたので、訪ねるのに勇気が要った。なにかを買うのであれば遠慮もないのだが、話を聞きたいというだけでは入るのに気後れする。どうにも具合が悪い。
 当たって砕けろと、意を決して、しかし恐るおそるガラス戸をあけた。
 心配するには及ばなかった。ご当主はいたって気易くにこやかに応対して下さった。
 表の店の間は、ちょっと粋な造りで小綺麗にしてあるが、一歩、中へ入るとそうでもなかった。店の間がすなわち仕事場である。作りかけのが転がっていたり、伐りだしたばかりの丸太や薄板が無造作に積んである。かんな屑が一面に散らばっている。お客さんは、椅子の上に降りつもっているかんな屑を払ってから腰掛けることになる。 

 

Photo_2 《たる源》さんは、のっけにこう言われた。「自分の作品は、どれもこれも自信があります。そのなかでも、よくできた品物のときは、われながら『ええもんが出来たなぁ』と感心します。よし、次もこのようなのを造ろうと励みになります」。
 春秋の叙勲などで、褒賞をもらわれた名人上手が、TVインタビューに応えているのをよく耳にする。ほとんどのお方は「いやいや、まだまだ修業中です。もっと勉強せねばなりません」と語っておられる。謙遜でもあろうが本音でもあろう。これに対して、《たる源》さんは「自分でも納得できる作品を作れた」と、きっぱり仰るのである。自分の力量に自信があるのだろう。おれは《たる源》だという自負があるのだろう。これも職人のひとつの見識だと思う。わたしは、この言葉を職人冥利に尽きるものとして、嫌味をまったく感じなしに聞いた。 

 

Photo_5 「この手桶ですが、注文されたのはお花のお師匠はんです。花器に使うのだそうです。わたしの作った品物が、展覧会場で多くの方々に観ていただけるなんて、思いもかけぬことです」。名人《たる源》が精魂込めて作った手桶に活けられたお花は、さぞかし、よく映えることだろうと思った。
 「樽なり桶なりを一人で作り上げるには工夫が要ります。手助けをしてくれるのが居れば、ずいぶんと楽なのですが。自分一人で作ってます。そこは職人の意地で、工夫してやっています」。
 わが家の寿司桶は直径25cmぐらいの小ぶりなものだが、3cmほどの木片を円形に並べ、周囲を2本の銅線で締めてある。木片には竹針が埋まっていて、形が崩れぬようにしてあるというが、どこに埋まっているかまったく分からない。並べただけのおもちゃの積木が崩れやすいように、ちょっと触るだけでもばらばらになってしまうのに、どうしてあのようにきっちり締まるのか、素人には不思議でならない。なかでも底板のはめ込みが、これまた熟練の腕の見せ所らしい。周囲の木枠が出来たところで、極めて正確に切り込んだホゾに、この底板をはめる。少しの狂いがあっても水漏れがするのだから、桶作りは木工仕事の極致のように思う。《たる源》さんが会心の笑みを浮かべるのは、たぶん、底板がきれいにはまった瞬間ではあるまいか。

Photo 店の隅に、さりげなく置いてあった品に、何度も視線がむいた。‘湯豆腐桶’だった。桶にダシを入れ、豆腐を浮かべる。急須の横にある金属製のを《たる源》さんは‘釜’といっていたが、銅の地金をたんねんに叩いて作ったもので、ここに炭火を入れ、ダシが常に暖まるようになっている。写真のは四角い桶だが、小判形になったものもある。湯豆腐はもともと風流な食べ物だが、こんな道具でいただくと何倍にもおいしく感じるだろう。
 《たる源》さんは、来年中にはこの‘湯豆腐桶’を六つは製作したいと言った。材料選びやら乾燥などの準備を、いまから始めるところだと教えてくれた。名人たる源にして年間六個しか作れないという。それほど手間のかかるものらしい。《たる源》さんがいうには「いくら手慣れたといっても、腕に残る記憶を保っておくには、やっぱり仕事をせねばなりません。さもないと、腕が鈍ってしまいます」。まさに名人上手の言葉であった。
 いま困っている最たるものは、原木の払底なのだそうである。コウヤマキが最適なのだが、年々、原木の入手が困難になっているという。コウヤマキが少なくなったのではなく、伐り出す木樵がいなくなってきたからだという。あの木は、あっちの山に一本、こっちに一本、という具合に生えているのだそうで、伐り出す費用が高くついて採算が合わないとのことだった。いまのところは、原木問屋がなんとか探し出してくれているが、そのうちに自分自身で山へ行くことになるだろうとのことだった。《たる源》の品物を求めてくれる高級料亭や好事家からも、引く手あまたなのだが、材料がなければ仕事が出来ない。思うようにならないものだと、困った顔をされた。 

Photo_16 ‘新五軒町’について触れるのを忘れていた。もともと京の町は賀茂川べりまでとされていた。賀茂川の東側・東山山麓は神社・仏閣の建立は認められていたが、町家は厳しく制限されていた。東海道の起点終点が三条大橋だったこともあって、その界隈への町家進出の要求が増加し、江戸中期になって、ついに許された。それまで、あの辺りには五軒の家しかなかったので、その名前になった。
 地図は、範囲を大きくして掲げた。皆さんがご存じの社寺はどこにあるか探すのも一興だろう。

 《たる源》の正式住所は‘大和大路’である。読んで名のごとく、大和への街道筋だったからだが、別名を‘縄手小路’という。昔風の京都人は、三条から四条通の南座までを縄手通と呼んでいる。縄手とは、川の畔の一本道のことだが、賀茂川べりの道だけにそうした呼び方がふさわしい。いま、縄手通りには古美術商が軒を連ねており、祇園町のすぐ傍ながら落ち着いた町並みになっている。
 《たる源》さんは、自家の地番を「役所はどういうか知らんが、大和大路ではなく、縄手小路だ。親父も同じ思いだった。先代から引き継いだウチの焼き印も、このように‘奈ワ手’になっていますやろ」と云われる。だから、ご本人の意思を尊重して、表題の住所表示を‘縄手道’と記入させていただいた。

 

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